有田焼は日本の磁器の革命児
いらっしゃいませ!本日のお話は有田焼ですね!
有田焼は佐賀県西松浦郡有田町で栄える陶磁器生産地。生産規模は先日訪れた美濃焼とほぼ互角。文句なしの国内最高峰の陶磁器生産地です!東の美濃焼、西の有田焼といったところでしょうか。国内で流通している陶磁器の過半数はこの二か所で作られています。
有田焼は歴史的に見ても重要な陶磁器生産地であり、日本で初めて磁器生産が可能となった産地であります。有田焼の存在なくして日本の陶磁器は語れません。今回は有田焼の功績を辿ってみましょう!
有田焼が始まったとされているのは17世紀ごろ。豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に朝鮮半島の陶工である李参平を連れ帰ったことがきっかけとされています。李参平は有田の地で磁器の原料となる陶石を発掘。近隣に自生していた松の木は焼成の燃料になるため、この地における陶磁器産業に必要なものは揃っていました。
かくして日本の磁器生産が始まったのですが、有田焼は当初「伊万里焼」と呼ばれていました。これは国内生産された磁器は伊万里港を通じて海外貿易されていたため、輸出地の名前が浸透したためです。(便宜上、以下『有田焼』で統一します。)そんな当初の有田焼は国内では画期的な焼き物として人気を呼びましたが、海外からの評価はまずまずだったようです。主要取引先である東インド会社からは「もっと雪のように白い磁器を」と度々要求されていたようです。
丁度、江戸時代の有田焼を1枚持っていたのでご参考までに。東インド会社に難癖をつけられた白に注目してみますと…たしかに雪というかコピー用紙みたいな白ですね。やや茶色っぽいと言いますか。(経年劣化の可能性もあるので正確なところは不明ですが。)
当時の世界最高補の磁器生産地は中国。そもそも中国は磁器生産の開祖であり、日本における陶芸文化も、中国の技術が基盤になっております。彼らの絵付けや素地の質は常に頂点を極めており、地理的にも陸続きだった朝鮮半島では15世紀ごろから白磁器による磁器生産が盛んとなっていました。中国の磁器は色彩の豊かさや、それを際立たせる美しい白が西洋諸国で人気を博していました。
有田焼は西洋諸国にも受け入れられる磁器を生産するべく、中国の磁器を研究・模倣を繰り返しました。青一色だった磁器は次第に赤、緑、黄色と色が増えていき、西洋好みである金彩も誕生。白もより純度を上げていき、藍色一色の絵付けでも鮮やかなコントラストも湛えるほどになりました。
こうして出来上がった有田焼は西洋諸国にて人気が爆発。ヨーロッパにとどまらず、イスラム・トルコ圏の王侯貴族に多くのコレクターが生まれるレベルに至りました。最盛期はついに中国を超え、純金と同等の価格で取り引きされることもあったようです。当時のレートなら、今の私の食器棚は金庫も同然ですね。
こうして圧倒的地位を確立した有田焼は技術革新を続け、現在もなおトップクラスの磁器生産地として活躍しています。当時世界で人気を博した『柿右衛門窯』は何人もの人間国宝を輩出する名門として業界をけん引しており、美濃焼クラスの大型メーカー企業も多く誕生。明治以降の近代化により高品質な食器を安定して量産することで、とんでもない品質の食器が家庭に低価格で出回るに至りました。純金レベルで愛された品が今や100円ショップで買えるって考えると凄い時代ですね…
今皆さんが無意識で使っている食器も、陶工たちの努力と歴史の結晶な訳ですね。そう考えるとなかなかにエモくないでしょうか?ぜひ大切に使ってあげてくださいね!今回のお話はここまで!それでは~!